登川誠(chéng)仁

簡(jiǎn)介: 小檔案
登川 誠(chéng)仁(のぼりかわ せいじん、1932年[1]11月18日 - )は、兵庫(kù)県尼崎市生まれ沖縄県育ちの沖縄民謡をメインとする歌手(唄者)、三線の名手で琉球民謡登川流宗家、琉球古典音楽湛水流名譽(yù)師範(fàn)。通稱は「誠(chéng)小」(セイグヮー、小柄なため)。また、早弾きを得意と 更多>

小檔案
登川 誠(chéng)仁(のぼりかわ せいじん、1932年[1]11月18日 - )は、兵庫(kù)県尼崎市生まれ沖縄県育ちの沖縄民謡をメインとする歌手(唄者)、三線の名手で琉球民謡登川流宗家、琉球古典音楽湛水流名譽(yù)師範(fàn)。通稱は「誠(chéng)小」(セイグヮー、小柄なため)。また、早弾きを得意とすることから“沖縄のジミヘン”の異名を持つ。
小簡(jiǎn)介
戸籍名は「盛仁」で、登録ミスだという[2]。沖縄県中頭郡美里村の東恩納地區(qū)(現(xiàn)うるま市)の農(nóng)家に育つ。7歳ごろから手製の三線に親しみ、毛遊びを覗き見て民謡を覚え、11歳にして既にカチャーシーをマスターしたという。學(xué)校にはほとんど通わず8歳で喫煙、9歳で飲酒を始める。敗戦後は米軍基地で下働きをする傍ら、物資の橫流しで稼いだ[3]という。
16歳のとき、沖縄芝居の松劇団に加わり、地方(地謡)を始める。ここでベテランの板良敷朝賢に三線を徹底的に仕込まれ、徐々に頭角を現(xiàn)した。琉球放送の人気ラジオ番組「素人ノド自慢大會(huì)」で嘉手苅林昌と共に優(yōu)勝。カチャーシーの名人として評(píng)判になり、1955年ごろからは芝居の舞臺(tái)にソロで立つ、初の「民謡歌手」となった。以後、各地で演奏活動(dòng)を続け、喜納昌永?津波恒徳とのトリオなどでも人気を博した。民謡中心の舞臺(tái)である民謡ショーを確立する一方でレコーディングも重ね、第一人者としての地位を固めていく。57年に小浜守栄や喜納らが設(shè)立し、63年に再編された琉球民謡協(xié)會(huì)の執(zhí)行部には最年少で名を連ねた。また56年、知名定男を素人のど自慢大會(huì)で見出し「天才少年」として育て上げた。
「豊節(jié)」「戦後の嘆き」「新デンサー節(jié)」「緑の沖縄」など作詞?作曲多數(shù)。歌詞は一貫してウチナーグチにこだわる。楽器の工夫にも熱心で、三線の弦を2本ずつ6本にした六線やエレキ四味線(よみせん)を開発したり、舞踴に用いられていた打楽器?三板を改良して民謡に取り入れた(後に日本三板協(xié)會(huì)[4]特別顧問となる)。また三線の楽譜である工工四に聲楽譜を加えた「民謡端節(jié)舞踴曲集工工四」(70年)など、工工四集を3冊(cè)まとめている。これらの功績(jī)に対して76年、琉球民謡協(xié)會(huì)の第1回功労賞を受賞。84年 から同協(xié)會(huì)會(huì)長(zhǎng)を最長(zhǎng)の6期務(wù)め、98年からは名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)。99年には同協(xié)會(huì)から琉球民謡名人位を受けた。また89年、沖縄県指定無(wú)形文化財(cái)技能保持者に認(rèn)定されている。
99年公開の映畫「ナビィの戀」(中江裕司監(jiān)督作品)に準(zhǔn)主役として出演、全國(guó)的に知名度を高めた。2002年にも同監(jiān)督の「ホテル?ハイビスカス」に出演し、話題を呼んだ。
また2010年、NHK沖縄放送局が制作したアナログテレビジョン放送終了啓発スポットに出演した。共演者は島津有理子転勤で『デジタルQ』を降板となったキャン×キャン、また県內(nèi)全局放送CMに出演した舞踴集団?花やからの児童メンバー。これはNHKデジタルのサイトで同年6月から公開されており、沖縄県內(nèi)でもアナログ放送で今後従來のCMに代えて放送回?cái)?shù)が増えることになっている。

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