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小檔案
沢田 聖子(さわだ しょうこ、 - )はシンガーソングライターである。東京都中野區(qū)出身、血液型:B型。文化女子大學附屬杉並高等學校、文化女子大學短期大學部生活造型學科卒業(yè)。
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フォークソング歌手としての活動を基盤に、他の歌 更多>
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沢田 聖子(さわだ しょうこ、1962年3月13日 - )はシンガーソングライターである。東京都中野區(qū)出身、血液型:B型。文化女子大學附屬杉並高等學校、文化女子大學短期大學部生活造型學科卒業(yè)。
小簡介
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フォークソング歌手としての活動を基盤に、他の歌手への楽曲提供、レポーター、パーソナリティなど、積極的に各種蕓能活動を行っている。一時期、仙臺から仕事の度に上京していたが、現(xiàn)在は都內に拠點を置き音楽活動を展開中。2009年のデビュー30周年全國ツアー後に事務所から獨立し、単身ライブ活動を行っている。
名前が似ており、さらに誕生日が3日違いで同い年であることから、松田聖子は比較されることがあったが、デビューは沢田が1年早く、音楽性は全く違う路線であった。松田聖子という名前は蕓名であるのに対し、沢田聖子は本名である。
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大事件
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デビュー以前?
1962年3月13日、新宿の聖母病院で産聲を上げ、母親が當時憧れていたピアニストの名前「しょうこ」と「聖母」から名付けられた。1963年、生後11か月の時に赤ちゃんモデルとして蕓能界デビュー。1967年より音羽ゆりかご會に入會、童謡を歌い始める。このころから、子供服などのファッション雑誌のモデルと並行して多數(shù)のCMにも子役として出演するようになる。有名な出演CMでは、渥美清と共演したパンシロン(ロート製薬:1968年)がある[1]。1975年の女性ファッション雑誌に、ジュニアモデルとして香坂みゆきと同じ紙面で掲載されている。
宮脇康之主演の「ケンちゃんシリーズ」にも出演しており、1975年から放映された「おそば屋ケンちゃん」に「不二子」という名のヒロイン役で、前後篇の2回(1975年9月18日?9月25日放送)にわたって出演。この時のオーディションは既に他の合格者が決まっていた「出來レース」だったが、宮脇が「この娘でなければダメだ」ということから、急遽沢田に変更されたという逸話がある。
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イルカオフィス時代?
1978年、イルカオフィスのオーディションにおいて『硝子坂』を唄うが合格決定とはならず、後日『翼をください』『時代』などをピアノの弾き語りで唄い合格する。このオーディションの際、ピアノ弾き語りの沢田にレコード會社は乗り気ではなかったが、當時のイルカオフィス社長だった神部和夫の目に止まり、合格にこぎ著けている。これには、イルカの産休からの復帰を機にイルカのファン層を同世代の女性をターゲットにする方針と、実力を兼ね備えたアイドルタレントを育てたいという事務所の思惑があった。沢田本人はオーディションの合格よりも、イルカのサインをもらうことに期待をしていたことや、華やかな歌謡曲歌手を想像していたこともあり、初めて人前で唄うピアノの弾き語りでの合格は戸惑いと驚きの結果だった。アマチュア経験もなく、モデル事務所の繋がりから受けたオーディションが、沢田の人生の大きな転機となった。「神部和夫さんと出會っていなければ、今の私はない」と、沢田は時折ステージで語っている。
1978年8月8日、16歳の時にイルカオフィスと契約。
1979年5月25日、クラウンレコードから『キャンパススケッチ』でレコードデビュー。「イルカの妹」というキャッチコピーにより、産休から復帰したイルカのカムバックリサイタルのステージにも立つ。以後、ライブを中心とした音楽活動、パーソナリティ活動などを積極的に行う。
彼女が活躍を開始した1980年代初頭においては、若い女性のシンガーソングライターは希少な存在であり、ルックスも相まって男性層からアイドル的人気を得た。80年代の女性ニューミュージックシーンを変え、アイドル性を持ったシンガーソングライターのパイオニア的な存在となる。1980年には學園祭出演數(shù)No.1を記録し、「學園祭のプリンセス」と呼ばれた。
その反面、自作曲のリリース比率が少ないことへの批判や、年齢相応の実生活での難局を迎えたり戀愛を歌う路線変更に苦戦して一時活動を休止するなど、その後続々登場する女性アーティストが直面する問題を先んじて経験することになった。
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クラウンレコード(1979年~1983年所屬)?
シングル9枚、オリジナルアルバム4枚、ライブアルバム1枚、ベストアルバム1枚、非公式2枚組ベストアルバム1枚をリリース。1979年10月25日にリリースされた2枚目のシングル『シオン』は、デビュー前の練習曲としてイルカから贈られた楽曲でもあり、ステージで唄われ続けている沢田聖子の代表曲である。1981年4月25日にリリースされた2枚目のオリジナルアルバム『青春の光と影』は、アイドル路線から一線を畫し、シンガーソングライターとしてのポジションを確立したアルバムである。1983年1月25日に発売された7枚目のシングル『卒業(yè)』は、沢田のシングル曲の中で最高のヒット曲となり、オリコンチャートの最高ランキング50位を記録する。
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日本フォノグラム(1983年~1987年所屬)?
シングル6枚、オリジナルアルバム6枚、ライブアルバム1枚、ベストアルバム1枚、ビデオクリップ1作をリリース。1983年にレコード會社移籍の噂が突然流れる。同年11月21日に移籍後初のアルバム『ターニング?ポイント』、シングル『季節(jié)~シーズン~』を同時発売。クラウンレコード時代、アルバムはランキング上位に位置していたものの、シングルの売り上げが伸び悩んでいたことから、シングルヒットを視野に入れた事務所の販売戦略によるものである。當時日本フォノグラム(フィリップスレコード)に所屬していたもんた&ブラザーズ(もんたよしのり)や大橋純子などのニューミュージック系アーティストがランキングを賑わせ、シングルヒットを生み出す手法に長けていたことからの選択だった。著名な作家による楽曲が提供されたものの売り上げは伸びず、沢田のオリジナル作品が占める割合も激減した。沢田の目指す音楽とのギャップも顕著になり、後年、沢田本人も「紆余曲折していた時代」と語っている。
ミニアルバムや12インチシングル、初のビデオクリップや寫真集など、多彩なメディア戦略によりファン層が拡大したのも事実であり、渋谷公會堂(現(xiàn)CCレモンホール)をはじめとする各地大規(guī)模ホールの客席を埋め盡くした。1984年7月29日には、東京?日比谷野外音楽堂でのコンサートを成功させている。
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SMC時代?
1988年5月25日、パーソナルオフィス『ショウコ?ミュージック?カンパニー』( SMC )を立ち上げ、16枚目のシングル『LIFE』をリリースし音楽活動を再開した。1988年6月5日、15枚目のオリジナルアルバム『LIFE』をリリース。パーソナルオフィス設立後、念願であったオフィシャルファンクラブを結成し、自らの音楽活動への想いを綴った楽曲『In My Heart 』をファンクラブ名とし、同名のツアータイトルで全國を廻り、アーティスト活動を精力的に行う。
90年代に入ると他のアーティストとのジョイントにも力を入れ始め、1990年12月30日、本人プロデュースによるアコースティックジョイントライブ『Acoustic Party Vol.1』をクラブチッタ川崎にて開催し、以降2008年まで毎年年末の恒例イベントとなる。1990年6月1日から、村下孝蔵と地方の公民館レベルを中心としたジョイントライブ東北ツアーを行う。誰でも口づさむ事の出來るフォークソングをカバーしたステージは、後の「THE 4/9」へとつながって行く。
1999年の村下孝蔵の他界を機に、本格的にギターを手にするようになり、アコースティックサウンドへと傾倒して行く。村下孝蔵を偲び、『親愛なる人へ』を初めてギターによって作詞?作曲し、2001年5月23日にリリースしたアルバム『祈り』に収録される。村下他界の翌年から、6月24日の命日に追悼ライブとして「Forever Live」を毎年行っている。2009年は自身の事務所獨立問題から休止を余儀なくされるが、2010年に再開した。
2004年5月25日 デビュー25年を迎える。それを記念して、同年10月21日に通算26枚目となるアルバム『History2』を発売?,F(xiàn)在も各地でコンサート活動を展開している。また、毎年冬に數(shù)日に渡り新富良野プリンスホテルにて「富良野チャペルコンサート」を開催。2005年からはさだまさしの妹である佐田玲子とユニット「THE 4/9」を結成して活動している。
2008年9月20日から翌年5月24日にかけて、デビュー30周年記念ツアーライブを全國30箇所において行い、同日、通産28枚目となるセルフカバーアルバム『Peaceful Memories』をリリースした。
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SMC獨立後?
2009年9月27日 吉祥寺のライブハウスにおいて、パーソナルオフィス『ショウコ?ミュージック?カンパニー』 ( SMC ) から獨立していることを正式に発表した。事務所の方針と本人のアーティスト活動としての方向性のギャップ、溝が埋まらず、それまでの全てを失うことを覚悟した上での決斷であった。すでに11月のライブスケジュールも発表され、長年使っていたツアータイトル『In My Heart』が変更されていること、ライブ會場にスタッフの姿がなく、単身で楽屋入りをしているなど、事の異変に様々な憶測が飛び交っていた。この事実はブログなどでは掲載しなかったが、これは、アーティストとしてファンに伝えるべき大事なことは、文章によらず、きちんとファンの前で自分の口から…という沢田のファンに対する姿勢の表れであった。獨立に際して、周りからは「獨りでは絶対に無理」と言われていたが、「獨りでも出來るよ」と言ってくれた人が一人いたという。それは、沢田の師匠「イルカ」だった。
これにより、オフィシャルファンクラブ『In My Heart 』が事実上解散した。沢田聖子が最後に事務所に託した、直筆によるファンクラブ會員へのメッセージはファンの手に屆かず、行方不明である。
2009年11月1日 獨立後、初のライブツアー「はじめの一歩」を東京?大阪?京都?浜松?名古屋で行う。2010年1月10日 さいたまを皮切りに、ライブツアー「続☆はじめの一歩」を全7か所で行う。
2010年3月には、それまで東京のみの公演だったバースデーライブを東京?大阪?名古屋において行い、1曲目から最後の曲まで、すべて會場の観客からのリクエストの中から応えるという、前代未聞のバースデーライブを行う。東京においては全36曲、3時間30分を歌い切った。
2010年7月、「株式會社セイント」を設立した。
2010年9月11日 通産29枚目のオリジナルアルバム『寶物』リリース。全國21ヶ所、25公演のライブツアー「沢田聖子 Live Tour 2010-2011 ~幸せを探そう~ 」を行っている。