小檔案
樂 隊 名 筋肉少女帶
日 文 名 筋肉少女帯
別 名 筋少、King-Show
經紀公司 ジャパンレコーズ
成員簡介
中 文 名 大槻賢二
日 文 名 大槻ケンヂ(おおつき けんぢ)
出生日期 1966年2月6日
出 生 地 東京都中野區(qū)
畢業(yè)學院 東京都立田柄高等學校卒業(yè)
職 業(yè) 作家、演員、歌手
擔 當 主唱(最初擔當主唱和貝斯)
姓 名 內田雄一郎(うちだ ゆういちろう)
出生日期 1966年2月8日
出 生 地 東京都中野區(qū)
畢業(yè)學院 立教高等學校(現(xiàn)?立教新座高等學校)
擔 當 貝斯手(最初擔當鍵盤手)
中 文 名 本城聰章
日 文 名 本城聡章(ほんじょう としあき)
出生日期 1964年9月10日
出 生 地 東京都
擔 當 吉他手
中 文 名 橋高文彥
日 文 名 橘高文彥(きつたか ふみひこ)
出生日期 1965年12月27日
出 生 地 大阪府枚方市
擔 當 吉他手
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バンド名 筋肉少女帯
別 名 筋少、King-Show
レーベル ジャパンレコーズ
バンド紹介
筋肉少女?。à螭摔筏绀Δ袱绀郡ぃ─稀?980年代後半から1990年代後半にかけて活躍し、2006年に活動を本格再開した日本のロックバンド。通稱は「筋少」(きんしょう)で、アルファベットでは「King-Show」(初期は「KIN-SHOW」)と記す。
蕓能経歴
結成?インディーズ期
1979年に當時中學生だった大槻ケンヂと內田雄一郎が組んだバンド「ザ?ドテチンズ」(別名ドンズ。當時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴らし、內田はエレクトーンを掻き鳴らした。
ドンズが解散した後の1982年、二人は高校進學を期に再びバンド「筋肉少年少女隊」を結成。大槻は「JAGATARA」のようなファンクバンドを志向していたものの、練習スタジオでファンクが上手く説明できず、結局「ディープ?パープル」の様な曲調になったそうである(このやりとりによって生まれたのが代表曲のひとつ「釈迦」)。4月6日のライブハウス新宿JAM「伝染病解散ライブ」にてライブデビュー。
1984年、バンド名を「筋肉少女帯」に改め、ナゴムレコードよりインディーズデビュー。とはいえ、まだまだこの頃のライブでは大槻がうどん粉で顔面白塗りの上、裸體に包帯を幾重にも巻きつけて歌唱するなど、「當時は學園祭バンドみたいなノリで、完全にキワモノ」(大槻談)であった。
同じ頃、後に第22期筋肉少女帯メンバーとなる5人がそれぞれのバンド(大槻?內田は筋少、本城は筋少?有頂天?エッグレイヤー、太田はYTJ、橘高はSLEAZY LUSTER)でYAMAHAのコンテストに出場。たびたび顔を合わせる舊知の仲だった。筋少はパフォーマンス賞や審査員特別賞を受賞、橘高、太田はそれぞれベストギタリスト賞、ベストドラマー賞を取るなど、対照的な成績を殘している。
1985年に三柴江戸蔵が參加(當初はサポート。1986年3月正式加入)。
1987年、ナゴムレコードより発売の自主制作EP『高木ブー伝説』が話題を呼ぶ。冗談畫報、11PMなどに出演。その際演奏した高木ブー伝説、ドリフターといった楽曲の歌詞が問題となったりもした。そのためドリフターズ所屬の事務所を名乗る者から苦情の電話が寄せられ、『高木ブー伝説』は結局自主回収という形で販売中止となる。しかし、その電話は後に悪戯と発覚する。大槻によれば、この一件で筋肉少女帯は一時解散の危機に立たされたが、他ならぬ高木ブーの擁護によって事なきを得たという[要出典]。
メジャーデビュー?バンドブームの盛衰
様々なメンバーが加入と脫退を繰り返す中で活動を続け、1988年6月、トイズファクトリーよりアルバム『仏陀L』?シングル『釈迦』でメジャーデビュー (第18期メンバー)。しかし、その後もメンバーが定著することはなく、半年後に発売された2ndアルバムは21期メンバーで録音された。
1989年2月の三柴脫退を受け、橘高文彥の加入?本城聡章の復帰が「大槻ケンヂのオールナイトニッポン」にて発表される (第22期)。筋少のオリジナル音源への參加に先駆け、「オールナイトニッポン」の企畫から派生した「まんが道」(大槻と內田による変名ユニット) の『ボヨヨンロック』において非公式ながら初のレコーディング。その後、さらに同メンバーで録音された3rdアルバム以降ついにメンバーが定著し、以後10年間メンバー交代が行われることはなかった。
アルバム収録曲『日本印度化計畫』が話題となり、続くシングル『元祖高木ブー伝説』(『高木ブー伝説』のリメイク) が一躍大ヒット。大槻がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めたことも相まって、一躍有名バンドへとのし上がっていく。「筋肉少女帯の深夜改造計畫」という看板TV番組まで持っていた。一方で、『ボヨヨンロック』、『日本印度化計畫』、『元祖高木ブー伝説』と笑いの側面の強い曲が立て続けにヒットしたこともあり、はからずも世間にはコミックバンドという認知が俄かに定著しつつあった。大槻自身、この三作をまとめて「ボヨヨン?カレー?ブー」=「B?C?B」と呼び、度々自虐的に當時の狀況をネタにしている。
1990年2月7日には単獨では初となる武道館LIVE。以後1994年まで通算4度、単獨での武道館LIVEを敢行する。
1992年発売のベストアルバム『筋少の大車輪』には、かつてのメンバーが一堂に集結。新録音曲「大釈迦」が収録された。
バンドブームが去った1992年9月、経営難となっていた所屬事務所をやめ、翌1993年暮れにはレコード會社との契約打ち切りも経験する。
1994年に橘高が、翌1995年に大槻がソロデビューするなど、メンバー各自での活動も多くなっていった。
所屬レコード會社は1994年にMCAビクター、さらに1996年にマーキュリーミュージックエンタテインメントへと移籍。
活動凍結?それぞれの道へ
1998年。當時の所屬事務所の経営破綻、精神バランスを崩したこと、メンバーのモチベーション低下等が重なった結果、この頃より大槻はバンドとしての活動限界を感じるようになる。その一方で「メンバーのまとまりがなかった反面、ライブそのものはよかった」と、パフォーマンス的には円熟していた時期であるとも後年公言している。
バンドブーム衰退後も獨自のスタンスを保ちメジャーシーンで活躍しつづけたが、同年7月の渋谷公會堂ライブを最後に太田が脫退。同時にバンドとしての活動休止が発表された。
9月、大槻は、內田および三柴らかつてのメンバーと期間限定で「80年代の筋肉少女帯」を結成。LIVEツアーも行う(後にインディーズよりビデオ発売)。
1999年5月には大槻がバンドのテコ入れを想定した「大槻と內田以外のメンバー一新による活動再開」を示唆し、後に橘高が脫退を表明。この事態(tài)が一部ファンに「大槻の獨斷による橘高外し」と受け取られ反発を招いた。大槻が公式サイト上で事態(tài)収拾を行うべく弁明の書き込みをするも逆に火に油を注ぐ形となり、大槻の人格攻撃に及ぶまでに至る。精神的に疲弊した大槻は翌6月に脫退を表明。內田雄一郎と本城聡章の2人のみとなった筋肉少女帯は事実上解散狀態(tài)となる。しかし2人は筋肉少女帯の名を守りつづけることを決意。
7月、內田と本城は「解散」ではなくバンドとしての活動「凍結」を宣言した。
その後、大槻は文筆活動と併行して「特撮」を結成し、様々なコネクションを通じ対バン勝負を呼びかけて個人名義での活動も行う。橘高は脫退と前後する形で結成していた「X.Y.Z.→A」に専念。太田は相川七瀬らのサポートの傍らドラム教室を開催。內田と本城は他アーティストのサポートやプロデュース活動の他、「筋肉少女帯」(KING-SHOW)としてサントラ製作やライブアルバム監(jiān)修、イベント主宰などを行っていった。
仲直り?活動再開
活動休止前後にはメンバー間で行き違いもあり、特に盟友関係と言っても良かった大槻と內田は、その後「特撮」內で対立して內田が脫退するなど一時絶縁に近い狀態(tài)となってしまう。 しかし
大槻と橘高の所屬バンド同士が競演する。
內田と本城の主催イベントに橘高が參加し、「一夜限りの復帰」と銘打ってセッションを実施。
大槻?內田雙方と交友があった元アンジーの水戸華之介が大槻のイベントにゲスト出演した際に內田を登場させて仲直りの場を設けた(もともとは大槻が水戸に內田への出演交渉を依頼。水戸は辛うじて內田の電話での出演を取り付けた形にしておいて、當日電話しながら內田が登場するというサプライズを演出)。
など、徐々に関係を修復していった。共演の際に筋肉少女帯の曲が演奏されることもあり、大槻と內田に至っては「仲直り」自體をイベントのネタとして使用するまでになる。
2006年にはかつて大槻がケラ、內田と結成していたユニット空手バカボンが突如復活しライブを行った。さらに大槻と橘高が三柴らのサポートを受けて「大槻ケンヂと橘高文彥」と稱するコンビを組み、筋少ファンを公言する滝本竜彥原作?大巖ケンヂ作畫のテレビアニメ『N?H?Kにようこそ!』に楽曲を提供。大槻、橘高參加時の往年の「90年代の筋少」サウンドを髣髴とさせる楽曲となった(シングル盤には筋少時代の楽曲「踴るダメ人間」のセルフカヴァーも収録されている)。
同年4月から7月にかけて『週刊アスキー』誌上において大槻が『筋肉少女帯物語』第1部を連載。大槻本人が明記しているようにフィクションのキャラクターも登場する「小説」なのだが、當時のメンバーらの許可の元に、バンドブームに巻き込まれ、急激に人気バンドになってしまった彼らを取り巻いていた狀況なども語られている。
そして小説第1部の最終回掲載直前の7月22日。恵比壽で行われた「大槻ケンヂと橘高文彥」のライブに、サプライズゲストとして內田と本城が登場。大槻と橘高の筋肉少女帯再加入と、4人で同年12月28日に筋肉少女帯のライブを行うことが発表され、凍結狀態(tài)であったバンドは8年ぶりに復活を果たした(小説第1部のラストでも、大槻が復活を宣言)。
メジャーデビュー時と同じトイズファクトリーに所屬することとなり、2007年3月にベストアルバム『筋肉少女帯 復活究極ベスト 大公式』が第一弾として発売された。
同年9月にはおよそ10年ぶりのオリジナルアルバムとなる『新人』を発売。
2008年9月21日に14年ぶり、単獨では5度目となる武道館公演を行った。
2013年4月、徳間ジャパンコミュニケーションズへとレコード會社を移籍。同社のレーベル、ジャパンレコーズより作品をリリースする。