中 文 名: 德永英明
外 文 名: とくなが ひであき,Tokunaga Hideaki
國(guó) 籍: 日本
星 座: 雙魚(yú)座
血 型: A型
身 高: 175cm
體 重: 63kg
出 生 地: 日本福岡縣柳川市
出生日期: 1961年2月27日
職 業(yè): 歌手,詞曲制作人
代表作品: 《Rainy Blue》《永恒的光輝》《BIRDS》《壞掉的收音機(jī)》《VOCALIST》
主要成就: 2011年第25回日本金唱片大獎(jiǎng)特別獎(jiǎng)
2011年第25回日本金唱片大獎(jiǎng)最佳企劃獎(jiǎng)
2008年第22回日本金唱片大獎(jiǎng)最佳企劃獎(jiǎng)
2007年第49回日本唱片大獎(jiǎng)特別獎(jiǎng)
2006年第48回日本唱片大獎(jiǎng)企劃獎(jiǎng)
德永英明(Tokunaga Hideaki),日本歌手、詞曲制作人。
早年經(jīng)歷
1961年2月27日,德永英明出生于日本福岡縣柳川市。從伊丹高中畢業(yè)后,進(jìn)入大阪觀光專(zhuān)業(yè)學(xué)校學(xué)習(xí),之后退學(xué)。19歲獨(dú)自一人來(lái)到東京尋求音樂(lè)道路,他曾做過(guò)餐廳服務(wù)生和食品推銷(xiāo)員,期間仍不斷創(chuàng)作,卻始終得不到唱片公司賞識(shí)。
1982年,德永英明參加電視公司舉辦的歌唱選秀節(jié)目《明星誕生》,一路打進(jìn)總決賽,在總決賽時(shí)敗給松本明子;1983年,22歲的德永英明決定加入TBS電視臺(tái)開(kāi)辦的演員訓(xùn)練學(xué)校,接受聲樂(lè)、歌唱技巧及其他演藝工作理論和實(shí)習(xí)訓(xùn)練。同時(shí)還進(jìn)行南方之星音樂(lè)錄音帶的演出。一年課程結(jié)束后,德永英明在畢業(yè)典禮上許下心愿,要在五年后站武道館的臺(tái)上為滿(mǎn)場(chǎng)的觀眾演出。
1985年,德永英明獲得一家制作公司的社長(zhǎng)賞識(shí),推薦參加第二屆“藍(lán)色海洋音樂(lè)節(jié)”歌唱大賽,他憑借自己的創(chuàng)作曲《Rainy Blue》獲得優(yōu)勝獎(jiǎng),開(kāi)始演藝生涯。
演藝經(jīng)歷
1986年,1月德永英明發(fā)行首張單曲《Rainy Blue》,這首歌為其在日本樂(lè)壇出道及成名作品。之后該歌曲經(jīng)臺(tái)灣填詞人陳家麗重新填詞的國(guó)語(yǔ)版《藍(lán)雨》由張學(xué)友翻唱后收錄于專(zhuān)輯中。同時(shí)還發(fā)行首張專(zhuān)輯《Girl》。
1987年,5月德永英明發(fā)行同名單曲和專(zhuān)輯《BIRDS》,其專(zhuān)輯連續(xù)兩周獲得日本公信榜周榜第一位。之后該歌曲再次被張學(xué)友翻唱成國(guó)語(yǔ)版《太陽(yáng)星辰》,因此德永英明還獲得了香港十大作曲大賞作曲者賞。7月發(fā)行第4張單曲《永恒的光輝》,此曲不僅拿下年度暢銷(xiāo)曲TOP6,還被譚詠麟翻唱成粵語(yǔ)版《Don't say goodbye》。至此德永英明在香港知名度上升,并受邀參與多場(chǎng)香港公益活動(dòng)及演唱會(huì)嘉賓。
1988年,5月德永英明發(fā)行第5張單曲《風(fēng)中的Eolia》,并且憑借該單曲獲得第8回日本作曲大賞優(yōu)秀作曲者賞。10月發(fā)行第6張單曲《最后的理由》,該歌曲被改編為八、九種語(yǔ)言翻唱。12月首次在日本武道館舉辦個(gè)人巡回演唱,實(shí)現(xiàn)了出道前的心愿。
1989年,4月他發(fā)行第7張單曲《戀人》,憑借該單曲德永英明不僅獲得第22回日本有線大賞有線音樂(lè)賞,并且蟬聯(lián)第9回日本作曲大賞優(yōu)秀作曲者賞。同年首次在香港紅磡體育館舉行個(gè)人演唱會(huì),并邀請(qǐng)譚詠麟和關(guān)淑怡作為嘉賓。
1990年,1月德永英明發(fā)行第9張單曲《相信夢(mèng)想》,該曲不僅是動(dòng)畫(huà)《勇者斗惡龍》的片尾曲,也是年度“十佳國(guó)民歌曲”的首位。7月發(fā)行第10張單曲《壞掉的收音機(jī)》,這首歌曲作為德永英明代表歌曲之一,也是其親自參演電視劇《都市之森》的主題曲。同年成立了自己的事務(wù)所,但是公司的經(jīng)營(yíng)、創(chuàng)作歌曲、錄制唱片、LIVE等全部需要由德永英明處理,所以身體開(kāi)始出現(xiàn)問(wèn)題。10月發(fā)行第10張專(zhuān)輯《Justice》,專(zhuān)輯最高獲得日本公信榜排行榜第一位。
1991年,發(fā)行第7張專(zhuān)輯《Revolution》,該專(zhuān)輯不僅一經(jīng)公開(kāi)即登上日本公信榜排行榜第一位,更是其中6首歌曲都被選為廣告曲;1993年,11月德永英明發(fā)行第18張單曲《在我身邊》,該曲為其代表歌曲之一。同年還策劃和參與制作電影《新加坡棒》,并且為該影片譜寫(xiě)主題音樂(lè)。
1995年,發(fā)行第20張單曲《未來(lái)飛行》以及第9張專(zhuān)輯《太陽(yáng)少年》;1996年,推出單曲《Rough Diamond》和《Smile》;1997年,出道十周年之際,德永英明推出了出道曲《Rainy Blue》的重唱版本。同年再次在香港紅磡體育館舉行個(gè)人演唱會(huì),為香港回歸中國(guó)后首次于香港舉辦個(gè)人演唱會(huì)的日本藝人;1999年,推出單曲《藍(lán)色約定》和《我的情歌》。
2004年,發(fā)行第34張單曲《My life》,其中一首《我就是我自己的救世主》描述了德永英明和病魔奮斗的過(guò)程;2005年,德永英明開(kāi)始翻唱女性歌曲,9月推出首張翻唱專(zhuān)輯《VOCALIST》。該專(zhuān)輯重唱了日本1960至今女性代表的經(jīng)典歌曲,主打歌為中島美雪的代表作《時(shí)代》。年終憑借該專(zhuān)輯獲得第20回日本金唱片大獎(jiǎng)最佳企劃獎(jiǎng)和第48回日本唱片大獎(jiǎng)企劃獎(jiǎng)。
2006年,2月德永英明推出出道20年紀(jì)念精選單曲專(zhuān)輯《Beautiful Ballade》,專(zhuān)輯內(nèi)全部采用原始音源。同時(shí)舉行20周年紀(jì)念全國(guó)巡回演唱會(huì)。8月發(fā)行第二張翻唱專(zhuān)輯《VOCALIST2》,其主打歌為中島美嘉的代表作《雪之華》。年末德永英明不僅憑借該專(zhuān)輯再次蟬聯(lián)第49回日本唱片大獎(jiǎng)企劃獎(jiǎng),還首次登上日本紅白歌會(huì),演唱代表作《壞掉的收音機(jī)》。
2007年,8月發(fā)行第三張翻唱專(zhuān)輯《VOCALIST 3》,該專(zhuān)輯以小林明子的出道曲《墜入愛(ài)河 -Fall in love-》作為主打,連續(xù)兩周拿下日本公信榜周榜第一位。此次也是繼1991年的冠軍專(zhuān)輯《Revolution》之后,其時(shí)隔16年后再一次拿下專(zhuān)輯榜冠軍。而隨著《VOCALIST 3》的大賣(mài),這個(gè)系列之前的兩張作品《VOCALIST》,《VOCALIST2》也再次全部進(jìn)入了日本公信榜排行榜前10名。年終德永英明獲得第50回日本唱片大獎(jiǎng)企劃獎(jiǎng),并且再次登上日本紅白歌會(huì),演唱翻唱歌曲《墜入愛(ài)河 -Fall in love-》。
2008年,專(zhuān)輯《VOCALIST 3》的銷(xiāo)量突破一百萬(wàn)張,為2008年第四張百萬(wàn)專(zhuān)輯,也是47歲的德永英明第一張百萬(wàn)專(zhuān)輯。同年舉辦德永英明了自己演藝生涯的第1000場(chǎng)演唱會(huì),并且再次登上日本紅白歌會(huì),演唱了出道曲《Rainy Blue》。
2009年,4月發(fā)行第44張單曲《砂時(shí)計(jì)》,其中包含電視劇《來(lái)我家嗎》片尾曲《砂時(shí)計(jì)》和富士電視臺(tái)廣告歌曲《即使沒(méi)有翅膀》兩首歌曲。5月發(fā)行專(zhuān)輯《We All》,獲得日本公信榜排行榜周榜冠軍。8月推出第45張單曲《Hello》,該曲不僅被選為日本面包廣告的主題曲,同時(shí)還是NTV日本電視臺(tái)綜藝節(jié)目的主題曲。年末德永英明第四年登上日本紅白歌會(huì),演唱代表作《壞掉的收音機(jī)》。
2010年,德永英明為紀(jì)念15年前驟逝的臺(tái)灣名歌手鄧麗君,發(fā)行第四張翻唱專(zhuān)輯《VOCALIST 4》,其主打曲為鄧麗君的《任時(shí)光從身邊流逝》。該專(zhuān)輯首周不僅以12萬(wàn)張的銷(xiāo)售拿下日本公信榜冠軍,之后更是連續(xù)4周蟬聯(lián)冠軍,同時(shí)這張專(zhuān)輯還是德永英明出道以來(lái)第一張?jiān)鹿谲妼?zhuān)輯。同年連續(xù)五年登上日本紅白歌會(huì),演唱鄧麗君代表作《任時(shí)光從身邊流逝》。
2011年,為了迎接出道25周年,德永英明發(fā)行出道25年紀(jì)念豪華精選輯《Vocalist & Ballade Best》。這張精選輯共收錄30首歌曲,除了德永英明自己的代表作《Rainy Blue》等之外,還有他翻唱的16首女性歌手名作。
2012年,5月德永英明發(fā)行翻唱專(zhuān)輯《Vocalist Vintage》;2013年,推出單曲《STATEMENT》,同時(shí)在日本全國(guó)舉辦33場(chǎng)巡回演唱。
2014年,9月發(fā)行第53張單曲《再見(jiàn)的彼端》,該曲翻唱自山口百惠的同名引退曲。年末德永英明第9年登上日本紅白歌會(huì),并且攜手羽生結(jié)弦演唱東日本大震災(zāi)復(fù)興應(yīng)援歌曲《花開(kāi)》。
2015年,推出第六張翻唱專(zhuān)輯《VOCALIST 6》,同時(shí)舉行43場(chǎng)全國(guó)巡回演唱會(huì)。
2016年2月22日,突發(fā)腦梗塞,為預(yù)防左復(fù)合進(jìn)行搭橋手術(shù),于3月11日出院,活動(dòng)暫時(shí)休止。
徳永 英明(とくなが ひであき、1961年2月27日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家、俳優(yōu)。
県柳川市生まれ、兵庫(kù)県伊丹市育ち。身長(zhǎng)175cm。所屬レコード會(huì)社はユニバーサルミュージック。公式ファンクラブは「TONY'S CLUB」である。名前に使われている徳の字および英の字は正しくは、戸籍と同じ舊字體である。2002年11月14日の復(fù)帰會(huì)見(jiàn)以降、本名の舊字體表記で活動(dòng)を始めたため、近年では各種メディアで舊字體表記が増えているが、文字化け等のリスク回避のため本項(xiàng)目では新字體を使用する。
略歴
福岡市立別府小學(xué)校、伊丹市立南中學(xué)校、伊丹市立伊丹高等學(xué)校を卒業(yè)後、大阪の観光専門(mén)學(xué)校(のちに中退)へ。
中學(xué)2年の時(shí)にラジオから流れてくる音楽に勵(lì)まされたり勇気をもらっていた。中學(xué)3年生の時(shí)に、井上陽(yáng)水の氷の世界を聞いて衝撃を受け、音楽で自分を表現(xiàn)したいと思うようになる。
19歳の時(shí)に上京、アルバイトをしながらミュージシャンを目指す。レコード會(huì)社近くの飲食店などで働き、顔馴染みになった音楽業(yè)界の関係者に自作の曲の入ったカセットテープを渡したりするなど、音楽で身を立てられるよう積極的にアプローチをしていた。またこの頃から新宿ルイードで定期的にライブを行う。父親から「25歳までにデビューできなかったら、自分と同じ保険の営業(yè)マンになれ」と忠告されていた。
オーディション番組『スター誕生!』第44回決戦大會(huì)に出場(chǎng)。山下達(dá)郎の「RIDE ON TIME」を熱唱するが、惜しくもスカウトされず。同じ日に松本明子(渡辺プロダクションからスカウト)、本田美奈子も出場(chǎng)していた。
デビューのきっかけを求めて22歳で俳優(yōu)養(yǎng)成學(xué)校TBS緑山塾に入る。
1985年8月、第2回マリンブルー音楽祭においてグランプリを受賞。
1985年、上記マリンブルー音楽祭を主催する上野義美が1982年に立ち上げたミニFM局「KIDS RADIO STATION」(通稱(chēng):KIDS)制作?総指揮をとるロックミュージカル「はらじゅくグラフィティ」の概要を発表。徳永もオーディションに參加することになった。オーディション參加者にはミュージカルスターやダンサーを目指す者も多く激戦であった。最終オーディションではSAM(のちにTRFに所屬)と徳永が競(jìng)い、役柄のイメージとルックス、歌唱力が抜きん出ていた[5]徳永が主演?トニー役を射止める。のちに設(shè)立されるファンクラブ名「TONY'S CLUB」は、この公演の役名から拝借したもの。同年10月、東郷神社特設(shè)ステージにて10日間の公演が行われた。共演は七瀬なつみ(本名?滝沢美千代名義)らなど。
1986年1月21日、アルバム『Girl』、シングル「Rainy Blue」でRadio Cityレコードよりデビュー。先述の父親との「25歳まで」との約束ギリギリの24歳10カ月でのデビューとなった。24日には新宿ルイードでメジャーデビューライブを行う。
同年2月8日、朝日放送(ABC)『ヤングプラザ』に出演し、「Rainy Blue」を歌う。メジャーデビュー後、初のテレビ出演。
同年4月15日、オフィシャルファンクラブ「TONY'S CLUB」設(shè)立。
1987年、Radio Cityレコードを同じ文化放送と渡辺プロダクションの合弁會(huì)社であったアポロン(後のバンダイ?ミュージックエンタテインメント)に統(tǒng)合、業(yè)務(wù)移管。
同年8月、富士フイルム「フジカラー」のCMソングとなったシングル「輝きながら…」がヒット曲となる。
1988年12月14日、12月15日、初の日本武道館コンサート。TBS緑山塾時(shí)代に宣言した、5年後に武道館でライブをやりたいという目標(biāo)を?qū)g現(xiàn)させた。
1989年12月28日、フジテレビ系ドラマ『悲しいほど好き! ?Mr.ダンディお嬢様に戀をする?』の神崎邦彥役でテレビドラマ初出演&初主演。
1990年、事務(wù)所を獨(dú)立。プライベートオフィス「マゼラン」設(shè)立。
同年1月16日、シングル「夢(mèng)を信じて」をリリース。テレビアニメ『ドラゴンクエスト』主題歌。
同年7月7日、シングル「壊れかけのRadio」をリリース。本人も友情出演のTBS系金曜ドラマ『都會(huì)の森』主題歌。當(dāng)時(shí)、ヒット曲を生み出す重圧に悩んでいたが、中學(xué)生の頃に純粋に音楽と向き合っていた頃の自分を思い出し、同曲を書(shū)き上げた。
同年10月9日(トクの日)、アルバム『JUSTICE』をリリース。
1991年3月、初のCM出演。カネボウ「ZENITH」(男性化粧品)。CMソングとして「Wednesday Moon」。
1993年1月、聲帯ポリープ手術(shù)のため、ツアーを延期。
同年2月、児童環(huán)境づくりのための期間限定ユニット「USED TO BE A CHILD」に參加。『僕らが生まれたあの日のように』をリリース。
1994年9月、元モデルの女性との結(jié)婚を発表。
1995年、第一子誕生。
1996年、レコード會(huì)社「株式會(huì)社アポロン」が、「バンダイ」に吸収され、「(株)バンダイ?ミュージックエンタテインメント」となる。
1997年11月、進(jìn)むべき道を見(jiàn)失い、原點(diǎn)に戻る意味でシングル「Rainy Blue ?1997 Track?」をリリース。ベストアルバム『Ballade Of Ballade』もリリース。初のバラードコンサートを行う。
1998年、第二子誕生。スペインに単身で渡り、充電期間を過(guò)ごす。レコード會(huì)社をキングレコードへ移籍。
2000年、バンダイミュージックの解散により、バンダイミュージックから販売されていたCD、ビデオなどが回収される。
2001年1月6日より、TBS『スーパーサッカー』メインパーソナリティーを務(wù)める。
2001年5月、もやもや?。椦苷虾Δ我环N)のため、コンサートツアーを中止?!亥供`パーサッカー』降板。
2002年11月、もやもや病を克服。レコード會(huì)社をユニバーサルミュージックへ移籍し、活動(dòng)を再開(kāi)。
2003年5月、よみうりランドにて野外ライブ「赤い太陽(yáng)の日」を開(kāi)催。以後、夏恒例のイベントとなり、2009年まで7回連続で開(kāi)催された。
2005年、女性ヴォーカルの曲をカヴァーしたアルバム『VOCALIST』をリリース。
2006年、デビュー20周年を記念して、ベストアルバム『Beautiful Ballade』をリリースし、コンサートツアー「Beautiful Ballade」、「Beautiful symphony」を行う。また、2作目のカヴァーアルバム『VOCALIST 2』をリリース。年末には第57回NHK紅白歌合戦に初出場(chǎng)し、『壊れかけのRadio』を披露した。
2007年5月、奈良の薬師寺で行われた、「“Present Tree Live?音楽の力で森をつくろう?”薬師寺本尊開(kāi)眼1310年記念奉納コンサート」に出演。3作目のカヴァーアルバム『VOCALIST 3』をリリースした。
2008年、ベストアルバム『SINGLES BEST』とカップリング曲を集めたベストアルバム『SINGLES B-SIDE BEST』を同時(shí)リリース。
2010年、4作目のカヴァーアルバム『VOCALIST 4』をリリースした。
徳永は1980年代から2010年代までの4つの西暦10年代連続でアルバム首位を獲得した(1980年代:『BIRDS』、1990年代:『JUSTICE』、『Revolution』、2000年代:『VOCALIST 3』、『WE ALL』、2010年代:『VOCALIST 4』)。男性アーティストによる4年代連続のアルバム首位獲得は、徳永が初である(女性アーティストを含めると、1970年代から2000年代までの4年代連続でアルバム首位を獲得した松任谷由実以來(lái)、2組目となる)。
2016年2月22日、もやもや病による脳梗塞発癥予防のために左複合バイパス手術(shù)を行う。3月11日、退院。3月いっぱいは加療のため活動(dòng)を休止。