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早坂 文雄(はやさか ふみお、 - )は、日本の作曲家である。
早坂文雄( — )英文名Fumio Hayasaka, 日本古典樂作曲家,同時也是優(yōu)秀的電影配樂家。
早坂文雄出生于日本最大的島本州島上的仙臺市,1918年的時候,早坂文 更多>
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早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。
早坂文雄(1914年8月19日 — 1955年10月15日)英文名Fumio Hayasaka, 日本古典樂作曲家,同時也是優(yōu)秀的電影配樂家。
早坂文雄出生于日本最大的島本州島上的仙臺市,1918年的時候,早坂文雄和家人一起搬到了北海道西部的城市--札幌。
1936年,在早坂文雄還很年輕的時候,他在一家教堂演奏風琴,同時也是在那里,他完成了自己的第一份作品《Prelude for Two Hymns》,后來,他陸續(xù)又創(chuàng)作了包括《夜景》(1936)《for piano and the orchestral Ancient Dance》(1938)在內(nèi)的一些早期作品。
在1939年的時候,早坂文雄搬到了東京去開創(chuàng)自己的電影作曲事業(yè)。二戰(zhàn)后,他開始了和日本杰出電影導演黑澤明的合作,盡管合作時間并不長,但他們兩人的每次合作都堪稱經(jīng)典。早坂文雄曾為這三部黑澤明電影擔當過配樂師:野良犬(1949),羅生門 (1950)七武士(1954)。
在東京的時候,早坂文雄也創(chuàng)作了一些著名的音樂會曲目,像《Ancient Dances of the Left and on the Right (1941)》, 《a Piano Concerto and the orchestral suite Yukara (1955)》。
他還是日本作曲家Masaru Satō和武滿徹的音樂導師。
1955年,早坂文雄死于肺結核,那時他41歲。
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札幌時代
1914年(大正3年)、宮城県仙臺市に生れる。祖父の代までは裕福な家柄だったというが、父の代には沒落していた。幼時、札幌に移住する。家庭はこれといって音楽的環(huán)境ではなかったが、父は日本畫をたしなみ、早坂も北海中學時代には洋畫家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病沒したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽學校への進學を斷念し、中學卒業(yè)ののち実社會に入った。
だが音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。この頃に伊福部昭、三浦淳史と知り合い、互いに意気投合する。早坂はピアノ、伊福部はヴァイオリンを弾き、伊福部が同好の大學生と組織した弦楽四重奏団と伊福部の兄の弾くコントラバスを加えてピアノ六重奏団を結成した。1934年(昭和9年)、「新音楽連盟」を創(chuàng)立し、第1回國際現(xiàn)代音楽祭を札幌で開く。曲目はすべて日本初演となる西歐現(xiàn)代作品で埋め、早坂はサティの《3つのグノシエンヌ》、《気取り屋の気むずかし屋の3つの特異的ワルツ》などを演奏した。この頃の作品はラテン的な影響の中に日本的なニュアンスの確立を目指したものである。ピアノ曲《激越なる小品》(1934)、《サティ讃歌》(1934)、ピアニストのジョージ?コープランドに捧げた《君子の庵》(1934)、《エヴォカシオン》(1935)などがあるが、これらはのちに習作として作品リストから除外している。
1935年(昭和10年)、札幌のカトリック教會でオルガニストを務め、ラテン語、神學を學ぶ機會を得、グレゴリオ聖歌の研究を始める。一時神父になろうとさえ思った。この間に作曲した《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協(xié)會「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、1936年(昭和11年)1月に放送初演される。同月上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに會う。3月には日本現(xiàn)代作曲家連盟に入會し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。また光星商業(yè)學校で音楽、美術、英語を教えるようになる。獨學の中で苦労も多かった早坂だったが、同年チェレプニンが札幌を訪れた際に多くの助言を得て、大きな啓示を受ける。
上京
1937年(昭和12年)、ピアノ曲《夜曲第1番》(1936年)がチェレプニン楽譜no.31として出版される。翌年、管弦楽曲《古代の舞曲》(1937年)がワインガルトナー賞優(yōu)等賞を受賞する。同年胸部疾患にかかり石狩當別に靜養(yǎng)する。1939年(昭和14年)札幌出身で東寶映畫社長の植村泰二に認められて上京、東寶映畫に音楽監(jiān)督として入社した。トーキー音楽の新分野に多くの仕事をこなし、名聲を確立していく。同年、荻原利次、石田一郎、塚谷晃弘の「獨立作曲家協(xié)會」に加わる。
翌1940年、管弦楽曲《序曲ニ調(diào)》(1939年)が日本放送協(xié)會主催紀元二千六百年奉祝管弦楽曲懸賞に主席入選。5月、日本現(xiàn)代作曲家連盟創(chuàng)立十周年記念作品発表會で《ピアノのための五つの楽章》(1940年)が初演され、7月の連盟総會で第18回國際現(xiàn)代音楽祭に出品決定。同年、獨立作曲家協(xié)會の第4回作品発表會で《五音音階によるピアノアルバム第1、第2》(1940年)などが初演された。
1941年(昭和16年)、日本大學蕓術科講師となり、新設の「映畫音楽」を擔當した。同年、日本音楽文化協(xié)會が発足し、その作曲部委員に就任する。1942年(昭和17年)、《室內(nèi)のためのピアノ小品集》(1941年)が日本音楽文化協(xié)會「第3回室內(nèi)楽作品試演會」で初演される。また同年、東京交響楽団主催「現(xiàn)代日本の作曲」演奏會で《左方の舞と右方の舞》(1941年)が初演される。しかし、肺浸潤を発病し、醫(yī)師に2年間の療養(yǎng)を勧告され、入院する。1944年(昭和19年)、退院し、映畫音楽などの仕事を再開するが、秋に再発。再び療養(yǎng)生活に戻る。
戦後から亡くなるまで
終戦後、一時札幌に住んだが、1946年(昭和21年)に東京へ戻り、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現(xiàn)代音楽協(xié)會」の作曲部推薦委員に就任する。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協(xié)會」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を擔った。
戦後は新作曲派協(xié)會において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映畫音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協(xié)會第1回作品発表會においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて會う。
翌1948年、《ピアノ協(xié)奏曲》(1948年)が「第11回東寶グランド?コンサート 日米現(xiàn)代音楽祭」で初演される。1949年(昭和24年)、第3回毎日映畫コンクールにおいて、「酔いどれ天使」「富士山頂」「虹を抱く処女」の映畫音楽で音楽賞を受賞する。翌1950年も「野良犬」で同賞を受賞。同年、東寶を離れ、「映畫音楽家協(xié)會」を設立する。1951年(昭和26年)、音楽を擔當した黒澤明監(jiān)督の「羅生門」がヴェネチア國際映畫祭で金獅子賞を受賞し、その音楽も大きな話題となる。
1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた病勢により、一時危篤狀態(tài)に陥るが、奇跡的に回復を果たす。同年秋、新作曲派協(xié)會、日本現(xiàn)代作曲家協(xié)會を脫會、また蔵書を売るなど身辺整理を始める。翌年、『音楽蕓術』誌上で三浦淳史と『早坂文雄と汎東洋主義(パンエイシヤニズム)音楽論』と題して対談し、自作を語る。
1955年、交響的組曲《ユーカラ》(1955年)が東京交響楽団定期演奏會で初演される。しかしその年の10月、映畫「生きものの記録」作曲中に容態(tài)が急変し、亡くなった。沒後、毎日映畫コンクール音楽特別賞、蕓術選奨が贈られた。
早坂はピアノ曲、管弦楽曲、室內(nèi)楽曲、映畫音楽の分野で作品を殘している。特にピアノ曲は全創(chuàng)作期に渡っている。また映畫音楽の分野では「羅生門」「七人の侍」他の黒澤明作品、「雨月物語」などの溝口健二作品など數(shù)多くの作品の音楽を手掛け、その功績は計り知れない。
作風と後世への影響
早坂は「汎東洋主義」を唱え、日本的?東洋的な美學を、作品に生かそうと試みた。武満徹、黛敏郎、芥川也寸志、佐藤慶次郎、佐藤勝といった後の世代の作曲家にも、彼の影響は大きい。
早坂の音楽が語られるとき、それは形而上學的、美學的、典雅、絢爛といった言葉で語られることが多い。しかし、このような言辭でのみ語りうるのが彼の音楽というわけではない。抽象化の思考のプロセスの中で変換されていった、彼に內(nèi)在の「概念」が指し示すものが何であるかを見極めることが、より重要となるだろう。次第に抽象化されていった彼の思考の生み出す音響をどのように捉え、解釈するのかが、早坂文雄の音楽を語るに際して必要なことであるといえよう。
著書に「日本的音楽論」がある。